「タウンニュース横須賀版」連載
Hit Me’s YOKOSUKAN Pop/Rock File
〜横須賀ゆかりの音楽や音楽家について、つらつらと〜
再録
(2007.4.27. 号初出分)
第九回
「I came from横須賀」山口百恵 (1977年)
本文:
その前に前回(飯森範親篇)の補遺として、氏は横須賀大使の一人である事を追加しておかねばなるまい。横須賀関連の連載として一番大事な点なのに! 失礼。
我が家が藤沢から横須賀に引っ越してきたのは、♪江ノ島が見えてきた♪を御当地ソングとして聴いた年、小六の十一月の事だった。横浜生まれの母は「すごく田舎よ」と不愉快そうに言ったが、栃木生まれの父は、自転車で海へ釣りに行けるのが嬉しそうだった。確かに母の言う通り、京浜長沢駅は1番線だけで、まるでプラレールの「いなか駅」だった。北下浦、逸見、追浜等が読めず困った。「不入斗」?!
「横須賀から汐入り(←この「り」は誤植だろう)、追浜」と、駅名が歌詞に織り込まれた曲が有る(「中央から」よりも分かり易いと判断したのか、それとも国鉄横須賀駅から汐入迄歩いたのか?)。そのまま飛ばし飛ばし品川迄歌われ、繰り返されるフレーズは「I came from 横須賀 あなたに会いに来た」。そこに郷愁は無い。LP封入の本人による一文によると、作詩にあたり阿木燿子と「長い長い時間お話ししました」との事。つまり自ら積極的に「操る側」に回ったのだ。この客観的視点が有ったからこそ、彼女は「山口百恵の時代」という言葉が出来る程の存在になれたのだろう。
ちなみに、引越しのせいで僕の妹は幼稚園を中退している。それはその後の彼女の人生に暗い影を落としてはいない(笑)。
写真:「百恵白書」LP盤アルバム・カヴァー
写真下キャプション:
『百恵白書』
1977年5月21日発売
構成・作詩:阿木燿子
作曲:宇崎竜童
えらくお姉さんに見えた山口百恵は当時十八歳。そして今尚ずっと歳上に見えるという大人っぽさ。恐るべし。
プロフィール:
音楽紹介業。67年生まれ。津久井小、北中、追高出身。洋楽依存症歴28年。
FMブルー湘南(横須賀78.5MHz)、湘南ビーチFM(逗子葉山78.9MHz)にて音楽番組を担当中
ひとこと:
我々は「シビレ節」作者と歌手の青島幸男、宮川 泰、植木 等をわずか一年で失ったという、これ又シビレる事実。
補遺
読めず困った:
特に横須賀・三浦以外に御住まいという方への補遺。
北下浦 きたしたうら
逸見 へみ
追浜 おっぱま (電話で「おったま」「奥多摩」と聞かれる事多し)
不入斗 いりやまず (漢文!)
引っ越して来た頃、半年後から通う事となる「北下浦中学校」を「きたしもうら」と読むのかと思っていた。誰かが「きたした」と略しているのを聞いて「したうら」なのかと知った次第。口に出す前で良かったと思ったものだ(笑)。
一応ラジオで話す様になって十五年以上、地名と人名には本当に悩まされる。海外の片仮名表記の方がずっと楽。
読みだけでなく文法からも、「外国語」として日本語を学ぶ人は本当に凄いと思う。アルファベットが三種類有って、そのうちの一つ(漢字)は殆んど無限という数。アクセントひとつで違う言葉になる例も多数。
日本語ほんとにむずかしいあるよ。
「中央から」よりも分かり易いと判断したのか、〜:
京急の駅名を順番に並べるならば
「横須賀中央」「汐入」「追浜」となる。因みにこれは特急の停車駅。
国鉄(当時)の横須賀駅と汐入駅は徒歩圏内。
なので、この歌詩は、
中央→汐入→追浜
と、素直に京急に乗っている設定
国鉄横須賀→(徒歩)→汐入→追浜
と、「基地の街」にある鉛色の海を見て(見納めをして)から「あなたへ会いに来た」という設定
の二種類の解釈が出来ると思っている。特に後者の風景が浮かぶ方ならば、「別にどっちでも良いんじゃないの?」とは思わないだろう。
所で、本筋とずれるが、最近、「どっちでも良いんじゃね?」という疑問の語尾が急速に広がる定着している気がする。普通に使うとしても、受け狙いでわざ使うにしても、美しくない言葉と思うので僕は使いたくない。
因みに栃木弁(那須あたり)だと「どっちでも良いんじゃねぇが?」となる。
最近の関東弁、特にイントネイションの乱れは栃木・茨城寄りが主流で、それらの「ガラ」を更に悪くしたものが多い気がする。
言葉も含め、俗な文化の中心が東京から北・北東へと移動しているという指摘は数十年前からあったが、池袋〜茨城・千葉から更に北上しているという事になるのだろう。東北本線と常磐線。久喜や小山、松戸や柏。そろそろ宇都宮と取手?
人見 ‘Hit Me!’ 欣幸 (音楽紹介業)
コメント