CHUCK BROWN チャック・ブラウンが亡くなった。
五月十六日。享年七十五。肺炎に敗血症を併発したという。
こちらはタワー・レコーズのウェブサイト。
済みません、弔文執筆には少し時間を下さい。
来日公演に何度か行けた事を、今は幸運だったと思う事にする。
無理矢理。
(以下は五月二十五日に加筆)
結果として最後の来日となって了った一昨年(2010年)の三月の公演にも参加していたリトル・ベニーが同年六月に亡くなっている。チャックお父さん(仲間内数名は彼をこう呼んでいた)の一番弟子というか、ワシントン・ゴ・ゴ界ではチャック、トラブル・ファンク、ドラマー=ジュジュ、に次いで有名だったであろうリトル・ベニーの四十六歳での急逝は残念だったし、何よりチャック・ブラウンの心中を案じたものだ。
それから二年と経たぬうちにチャックも旅立って了うとは。
僕がワシントン・ゴ・ゴを知ったのは多分1985年、トラブル・ファンクがアイランドから出したライヴ・アルバム『Saturday Night Live in Washington D.C.』だったと思う。矢鱈と熱いジャケットが印象的だった。でも片面ノンストップ状態のライヴだったので、おそらくラジオで聴く事は無く、ジャケットを見ただけだった筈だ。買うには至らなかった。
そして翌86年の『Say What?』の冒頭をラジオで聴いたのだ。これでやられた。その翌年にはザ(←当時)・バブルガム・ブラザーズが『非難 Go-Go』を逸早く出したのには笑った。曲や歌詞の発想も良かった。「♪高田く〜ん!」
その1987年、チャック・ブラウン&ザ・ソウル・サーチャーズが初来日する。ワシントン・ゴ・ゴ云々という知識無しに「We Need Some Money」を聞いた事は有ったけれど、正直、気になる(買う)程では無かった。好きになったのはライヴ・アルバム『Live 87-Bumpin’ Y’All』をピーター・バラカンが番組でかけたのが切っ掛けだ。彼は「来日します」という情報と共に「Go-Go Swing」をかけた。
ライヴに行く事にした。
そのLP、二枚組ライヴ・アルバムだったので輸入盤とはいえ値が張ったが、買った。
大当たりだった。
当然のこと、ライヴは素晴らしかった。
大好きになった。
以降、大好きなまま現在に至る。
言葉が続かない。
或る程度はアルバムやシングルも持っている。楽しんではいる。ライヴ・アルバムは矢張り特に良い。でも、矢張り「ライヴそのもの」に接しないと。
彼等の魅力はライヴだという、ファンならば誰もが感じる結論に至る、そんな「惜しい出来」の音盤(含ライヴ・アルバム)を前に、遂に今後彼のライヴを体験出来る可能性がゼロとなった今、途方に暮れている。
トラブル・ファンクには明確な P-ファンクからの影響が見られる。しかも良い意味で B級な感じも引き継いでおり、それが面白い。八十年代半ばに彼等と契約していたアイランド・レコーズは其処を突破口にしようとしたのだろう、プロデューサーにブーツィ・コリンズを迎えたりした。ゴ・ゴの肉体性は失われた出来となったものの、矢張りレコーディングに長けたブーツィを迎えただけのことはある、「録音物」としてのクォリティは大変高い楽曲が出来上がった。僕は好きだ。だがそれは「彼等の」というよりも「ブーツィのプロデュース作品」としての「好き」だ。来日公演でもその曲「トラブル」は披露されたが、ステューディオ(スタジオ)盤のクォリティを再現しきれていないと感じた。今迄とは逆だ。というより、つまりゴ・ゴ・ナンバーではなかった、という事だろう。
チャック・ブラウン&ザ・ソウル・サーチャーズには、そういった「ブレ」は無かった。チャックがトラブル・ファンクよりも上の世代という事もあって P-ファンクの匂いはあまりしない。良くも悪くもライヴ・バンド、良い意味で昔のブルーズやビッグ・バンド・ジャズの香りを引き継いでいる。特に彼自身はほぼ常にスーツ着用、その「御客様は神様です」というマナーが往年のショウマンの伝統を守っていて嬉しい。近年のステューディオ(スタジオ)盤は彼のソロ名義で、ライヴとは違うアプローチで制作されていた。彼自身も「ライヴとのギャップを悩むのではなく、これはこれで楽しむ」と考え方を改めたのだろう。
ゴ・ゴはリズム・パターンが決まっている。それもとても限定的なパターンだ。これが好きになるとずっと好き、これにピンとこないと、又は飽きるとついていけなくなる。特にチャックは、そのパターンに乗せて自作もカヴァーも何でも歌い演奏する。しかも始まったら最後、ライヴはほぼノン・ストップで。その時その時のヒット曲が挿まれたり、スライ&ザ・ファミリー・ストーン「ファミリー・アフェア」だったり、「ストーミー・マンデイ」だったり、「ハーレム・ノクターン」だったり「2001(ツァラトゥストラはかく語りき)」だったり。飽きない。
ミュージシャンが亡くなると、僕は番組でライヴ音源をかなり多くかける。矢張り「その人物のライヴに接する機会を永遠に失った」という喪失感が大きいからだ。彼の場合は特に「ライヴの人」だったのでそれを痛感する。運が良い事に何度もライヴに通えたからこその贅沢な痛みではあるのだが。
なので、もう「有難う、楽しませて貰いました」としか言えない。
だらだらと節操無く想い出話を書き連ねることになりそうなので強引に締める。
1965年にプロとして仕事を始めたというから、そのキャリアの半分以上をリアル・タイムで追い掛けられた事になる。それはとても幸運な事だった。そう思うことにしよう。
人見 ‘Hit Me!’ 欣幸, ’12. (音楽紹介業)
コメント