内藤 陳 が亡くなった。
十二月二十八日。享年七十五。食道癌。
こちらはスポーツ報知のウェブサイト。
彼を知る音楽ファン相手によく言う事なのだけれど、僕は音楽版の内藤 陳になりたいと思っていつも文筆活動をしている。評論家と名乗りつつも「オススメ屋」でいたい。単に「音楽ライター」という肩書きが好きではないからという事も理由ではある。
好きなもの、良いものを紹介する役でいたい。状況論もふりかざすけれど、批判もたまには(?)するけれど、嫌いなものについて触れる時間は無駄だ、それなら「これが良い」「あれは素晴らしい」という事を多く書いたり語ったりしたいというのは、明らかに内藤 陳の連載していた「読まずに死ねるか!」の影響だ。
僕は言ってみればよくいる「ホームズ、ルパン、ポワロを軽くなめて深入りはしなかった」「『少年探偵団』のTV番組は何と無く観ていた」という程度の探偵小説ファンの小学生だった。七十年代の子供のある典型だったと思う。
其処から自然とそれらの「もと」であるポオのデュパンものを知り、彼を再読再々読し始めてからはますます「フォロワー」への深入りという興味は無くしていた。このあたりは、七十年代ロックの多くの「先駆」としてのザ・ビートルズに行き当たった時に似ている。まぁ音楽は深入りしたのだけれど(笑)。
で、ダシール・ハメット、アーネスト・ヘミングウェイ、レイモンド・チャンドラー辺りに入り始めたその頃に、確か「読まずに死ねるか!」を知ったのだ。
渡りに船とはこの事。
彼の書評コラムは、三年前に休刊となった月刊プレイボーイ誌に連載されていた。高校生の頃、1983年に単行本第一弾「読まずに死ねるか!」が発売され(その頃に連載タイトルも同じになった)、北方謙三らがシーンに登場したこの時期の冒険小説・推理小説のブームを牽引。ラジオにも多く出演した。
僕のアンテナに引っ掛かったのもそのFM番組出演が大きな切っ掛け。語り口がとても面白かった。好きな本に対する過剰な愛情に満ち満ちていて、実に気障で、ロマンティックで。それがしかし、コメディアンであるという都合の良い隠れ蓑を持っていた事から、いくら過剰でもニヤリとさせて嫌味にならなかった。
俳優としては、TV「探偵物語」にゲスト出演していたのも印象深い。
FM東京でやっていたラジオドラマ「マンハッタン・オプ」の単行本が出ており、その著者(もともとの台本も書いていた)のが矢作俊彦という作家である事を知ったのは内藤 陳の御陰だ。
以来、好きな作家のトップは彼である。
北方謙三に深入りしていった切っ掛けは内藤 陳がくれた。
森 詠が好きになったのは内藤 陳が切っ掛けだ。父の本棚にも森 詠の著作が有った時には驚いた。
ギャビン・ライアル、クライヴ・カッスラー、ジョン・ル・カレ、アリステア・ムックリーン(マクリーン)、トレヴェイニアン、ルシアン・ネイハム、井上 淳(きよし)、ジェイムズ(ジェームス)・クラムリー、ロバート・B. パーカー、「ジャッカルの日」、「山猫の夏」、・・・。
それらが我が家の本棚や押し入れの段ボール箱の中に有るのは内藤 陳の影響だ。
つまり、「レコード、CD、本、雑誌で出来た家」である我が家のかなりの構成要素は彼の影響下で集められたという事だ。
大体、もしかしたら僕が一番読んだ本は「読まずに死ねるか!」かも知れないのだ(※)。「オススメ本をひたすら褒めまくるだけのエッセイ集」なのにわくわくさせてくれる本を書けるというのは、これはもう文才以外の何物でもない。
そう言えば「読まずに死ねるか!」写真頁にあった彼の書斎に憧れたものだった。
レコード、CDを混ぜて良ければ完全に同じになっている現在の自分に気付く(笑)。
彼の店、新宿ゴールデン街「深夜プラス1」へ詣でるのは遠慮していた。
こちらは単なる変種のフォロワーである。相手はプロレタリア文学作家の息子で大道芸人、榎本健一に学び、浅草の舞台に立ちと酸いも甘いも現場で知り尽くした御仁。会ってもこっちの底の浅さを見破られて相手にされない可能性も大きい。・・・等と躊躇しているうちに訃報である。
こうして「後悔先に立たず」がまた増えた。
有難う、内藤 陳。
僕は貴男に「気障」と「飄々」の両立は可能なのだと教わった気がします。
人見 ‘Hit Me!’ 欣幸, ’11. (音楽紹介業)
(※)渋谷陽一、松村雄策の著作と共に。つまり文芸作品ではなく、広義での評論集を多く読む人間なのだ。結局僕はそういう奴。
レイモンド・チャンドラーと矢作俊彦も、或る意味では文芸作品を隠れ蓑にした文明批評であるし。結局そういう奴。
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