島田和夫が亡くなった。
享年五十八。
十月二日未明、自宅前で倒れている所を発見されたのだという。
事件性は無いと警察はみているそうだ。
こちらはスポーツ報知のウェブサイト。
大きく一括りにしてしまうのは乱暴だと承知はしているけれど、全体に「関西のノリ」は苦手だというのが正直な所(※)。でも当然、例外的に好きなミュージシャンが居る。
ウルフルズ。
澤田研二(生まれは山陰だけれど)。
アンチェイン(UNCHAIN)。
そして、憂歌団。
僕が彼等の存在を知ったのは ’80年前後、ショーボート末期。雑誌の日本のロック・バンド特集や当時の新譜『ローリング・ステディ』『夢・憂歌』辺りの新譜紹介文。おそらくその時点で音は聞いていなかった。
意識して彼等の音楽に触れたのはフォーライフ移籍第一弾『リラックス・デラックス』のプロモウションでラジオに出演した際。つまり彼等の語りと音楽を同時に知った。かなりのインパクト(笑)。
その『リラックス・デラックス』は伊藤銀次がプロデューサーとなったもので、ショーボート時代と較べてかなり洗練された音楽性に賛否が分かれていた頃だけれど、高校生だった僕には充分泥臭く、充分黒かった。
そして「オナカイタイ」等の曲を気に入った。
大学生になりバンドのサークルに入ったのだけれど、憂歌団をレパートリーにしている先輩バンドが居た。「パチンコ」や「嫌んなった」といったドぎついものではなく「渚のボードウォーク」や「16t」「10$の恋」等。
その先輩達から『生聞59分!』等をカセットにコピーして貰ったのだと思う。それが ’85年。
大学を卒業する ’89年からコンサート会場の舞台設営や客席案内等のアルバイトを始めた。憂歌団の現場も有った。多分 ’90年の『Good Times’s Rollin’』発表時のトゥアー。僕が働かせて貰ったのは横浜市教育会館だったと思う(青少年会館の斜め向かいのホール)。サポート・キーボード・プレイヤーに難波正司を迎え、アクースティックとエレクトリックの二部構成。
ユニークだったのはその一部二部の構成で、普通、アクースティックとエレクトリックで分けるのであればアクースティックを第一部にすると思うのだが、彼等は立って演奏するエレクトリック・セットを第一部、小休憩を挟んでの第二部を椅子に座ってのアクースティック・セットで行ったのだ。そして当然、第二部の方がバンドも客席も盛り上がる。とても彼等らしかった。
憂歌団は基本的に地味な演奏スタイルのバンドだ。島田和夫も終始地味なドラミングを披露。しかしその熱気たるや。ブルーズ、ラグタイム、ジャズを基本に、コミカルな歌詞(本場アメリカのブルーズもそんな歌詞ばかりではないか)が話題になりがちだったが、その向こうにきこえる確かな演奏力で、音楽仲間や楽器を持つ一般人に愛され続けている。
彼等は不動のメンバーでの活動を ’98年迄のおよそ四半世紀貫いた。「冬眠」という名の活動停止だったので、彼等自身もいつか活動再開を出来ると思っていたのではないだろうか。
それが、少なくとも不動の四人での活動再開は、これで永遠に不可能となって了った。もしかしたら追悼として三人が集まるかも知れない。それはそれで嬉しいけれど悲しい。
ジョニー吉長、かまやつひろし、野村義男が司会をしていた「ROCK鳴缶(ろくめいかん)」というTV番組が有った。憂歌団がその番組に出演した際にジョニーが何かと「島田さんといえばガラが悪い話ばかり」という振りをしていたけれど、島田和夫は「いやいや」と笑って誤魔化すだけだったと記憶している。それが「ああ、本当にガラの悪いエピソードを多く持っているのだろうな」と想像させた。
ジョニーが言うぐらいだからね(笑)。
そんな、ブルーズマンらしいブルーズマンがまた一人減って了った。残念でならない。
憂歌団といえばやっぱりライヴ。レコードもライヴ盤だね。
『生聞59分!』(1977)
『ベスト・オブ憂歌団ライブ』(1986)
(※)関東の一都六県を一括りに「関東のノリ」というのと同じだから、そりゃ随分乱暴だわなと神奈川県民としては思う。
人見 ‘Hit Me!’ 欣幸, ’12. (音楽紹介業)
コメント
SECRET: 0
PASS:
ドラマーの訃報が続きますね。うーむ。
話は変わりますが、もちろんご存知チェック済みとは思いますが、山下達郎がこの間の拓郎と坂崎のオールナイトニッポンに出演しましたね。
久しぶりにラジオをエアチェックしました。もしも、録音ご入用でしたら、ご連絡を。いや、しかし、傑作な放送でした! Like