January 9th, 2009. イシイ ポップス・イン・ザ・ボックス
提供:石井食品
vol. 563.
M1
16:04 GHOSTBUSTERS
Ray Parker, Jr.
M2
16:08 NEED A LITTLE TASTE OF LOVE
The Doobie Brothers
M3
16:12 TWO OCCATIONS
Deele
M4
16:17 BOOGIE OOGIE OOGIE
A Taste of Honey
ミドル4:プリンス
M5
16:23 I FEEL FOR YOU
M6
16:27 WHEN DOVES CRY
M7
16:31 THE SONG OF THE HEART
M8
16:35 RASPBERRY BERET (/Prince and the Revolution)
Prince
M9
16:41 ADDICTED TO LOVE
Robert Palmer
M10 日没ソング 本日の日没 16:45
16:45 HOLLYWOOD NIGHTS
Bob Seger and the Silver Bullet Band
M11
16:52 SWEET LOVING WAY
The Style Council
M12
16:55 SAVE ME
Aretha Franklin
プリンスを生理的に受け付けられないという人は昔から多い。
まぁ仕方無いかな、とも思う(笑)。
でも、それで彼の素晴らしい音楽を拒絶してしまうのは本当に勿体無い。
時期によりその度合いは変わるが、基本的に彼は一人で音楽を作る人だ。作曲は勿論、演奏も歌・コーラスも。
此処ニッポンでは、ファルセトー(ファルセット、裏声)・オンリーと言えたその初期作品で、彼は切っ掛けをハズしてしまったと言えるだろう。
アメリカ大衆音楽、特にブラック・ミュージック界で、ファルセトーは男性のセクシーさを醸し出す効果(一種の「囁き」として)としての使用法が多いのだが、この発想に対する理解(文化的土壌)が日本には無い。この使用法は気持ち悪がられる。
プリンスのファルセトーはこのパターンなのだ。
基本的に、「裏声でずっといく」という歴史が多分無い、日本には。
(浅はかな知識の中で気付いたというだけの、検証の無い発見ですので、間違っているかも知れませんよ。)
歌舞伎等の女形(おやま)も、裏声を「挟む」ぐらいで、裏声で「通す」という事は無い。
「音」「声」は控えめに、むしろ振舞い(流し目!!)で女性性を表現する(大衆演芸も含めて、その表現力は素晴らしい)。
ひと言目が裏声で、グッと地声に落とす事が多い気がする。
いわゆるムード歌謡を考えて頂ければ御理解頂けると思うが、女性の歌詞は、いわゆる「ナヨッ」としたソフトな地声で歌われ、裏声にはならない。
又、元来はとても宗教的・儀式的即ち超俗的な使用法であるハワイアンでの裏声は、我が国では「ヨーデル」であり、コミカルな名人芸という域を出なかった。
「子供っぽい声」「コミカルな声」「腹話術声」、又は単に「男性が高い声を出す手段」として、洋楽の、或いは洋楽的なファルセトーは、日本で少しずつ認められていったのだと思う。
R&R時代に入ってからは、やっと、ザ・4・シーズンズ(「シェリー」)やザ・ビーチ・ボーイズ、我が国のザ・キング・トーンズ等が、一種の「お笑い」的な見られ方で得た市民権を土台に、ザ・テンプテイションズ、ザ・スタイリスティクス、アース、ウィンド&ファイアーが洋楽ファンに認められたのが七十年代と言えると思う。
つまりそれは「セクシー」な側面を切り捨てた(聴く側が無意識のうちに避けた)裏声としての評価であった(※)。
セクシーで、時には変態(笑)な世界を、少ない楽器とファルセトー・ヴォイスのみで見事に作り上げたプリンスの初期数枚は、アメリカ本国でさえも、一部のマニアに愛されるにとどまっていた。
なので日本では、・・・言う迄も無い。むしろセカンドから日本盤がちゃんと出ていたのが驚きだ。
・・・等と、偉そうにこんな事を書いている僕も、最初に彼を知った、ザ・ローリング・ストーンズの ’81年全米トゥアーの前座だった時は全く駄目。
露出狂っぽいコスチュームでしかも女性の下着を身に付けた裏声の男は、いくらミック・ジャガーの御気に入りって言われてもさぁ、中学生には辛かったぞ(笑)。ザ・J.ガイルズ・バンドを応援しちゃったぞ、そりゃあ。
でも、翌年にはミックの先見性に呆気無くひれ伏す事になる。
『1999』。
そして『パープル・レイン』以降、八十年代で最も好きなミュージシャンの一人に。新譜を心待ちにする(実は多くない)ミュージシャンになった。
彼の『パープル・レイン』から『ダイアモンズ&パールズ』ぐらい迄の、シーンを牽引していた時期を、ティーンエイジャーから二十歳過ぎという年齢で実体験出来た僕は本当に幸せだった。
上の世代に対しても下の世代に対しても、洋楽ファンとして最も自慢出来るのは「この時期のプリンスと共に十代を過ごせた」という事だ。
良いだろ。
プリンスの作る音楽は、自己完結的な傾向が強い。
しかし閉鎖的では無い。
排他的な匂いがしない。
限りなく開放的だ。
出来上がった自分の世界を他者に強く愛でて貰いたいという願望に満ちている。
箱庭ではあるのだが、その庭はやたらと広く、しかも誰でも入れる様に門扉は開かれている。というよりも柵や塀が無い気がする。
其処をもう少しディアンジェロには継承して頂きたい(笑)。
新作、待ってますぜ!
人見 ‘Hit Me!’ 欣幸, ’09. (音楽紹介業)
(※)ディープ・ソウル・ファン寄りの耳で聴くとフィリップ・ベイリーのファルセトーが物足りないのは、ボーイ・ソプラノ或いはカストラート、カウンター・テナー的な「高音」という側面が強く、色っぽくないからだ。
それはそもそも、モーリース・ワイト(ホワイト)の意図が、歌も演奏もハイ・テク・マシーンと化した「濃過ぎないソウル」であったのだろうから、狙い通りだったのだろうけれど。
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