(同日夜、加筆)
例によってソウルの情報は吉岡正晴氏のブログより (9/18付)。
プロデューサー、ノーマン・ウィットフィールド(ホイットフィールド、Norman Whitfield)が亡くなった。
九月十六日。糖尿病。享年六十八(六十七、六十五という説もあり)。
彼は、・・・と書き始めると長くなり、更新が遅れそうだ。ひとまず第一報として。
(以降、加筆分。案の定、長くなった。)
モータウンの六十年代。中期迄はモータウンらしい「良い子」の範囲内での冒険だったと言えるだろう。勿論、それを踏み外す事無く革命を起こした・起こせた点は特筆・高く評価するべきなのだが。
ザ・ミラクルズ
ザ・スプリームズ(シュープリームス)
ザ・テンプテイションズ(テンプテーションズ)
フォー・トップス
といった歌手は勿論、
近年は
アール・ヴァン・ダイク
ジェイムズ・ジェイマスン(ジェームス・ジェマーソン)
べニー・ベンジャミン
ピストル・アレン
といったバック・バンド、通称ファンク・ブラザーズにも光が当たる様になったが、
僕は元来プロデューサー、ソングライターに目が行きがち。
そこに目を向けると、重要性・貢献度は
五割 ホランド=ドージア(ドジャー)=ホランド
四割 スモーキー・ロビンスン
一割 その他
というバランスで示す事が出来るだろう。
六十年代半ば迄は、ノーマン・ウィットフィールドはまだ「その他」の一人でしかなかった。’63年のマーヴィン・ゲイ「プライド・アンド・ジョイ」がこの時期の作品として知られる。
彼の活躍は、ザ・テンプテイションズのメイン・プロデューサーを、それ迄のスモーキーから引き継ぐいでから本格化する。
その多くは作曲も彼が担当している。作詞作曲のパートナーはバレット・ストロング(Barrett Strong)、モータウンの初ヒット「マニー(Money)」を歌った人物だ。
主なものは以下の通り。
The Temptations
(produced by Norman Whitfield)
’66:
Ain’t Too Proud to Beg
Beauty Is Only Skin Deep
(I Know) I’m Losing You
’67:
I Wish It Would Rain
’68:
Cloud Nine
’69:
Runaway Child, Running Wild
I Can’t Get Next to You
’70:
0Psychedelic Shack
Ball of Confusion (That’s What the World Is Today)
’71:
Just My Imagination (Running Away with Me)
’72:
Papa Was a Rollin’ Stone
’73:
Masterpiece
素晴らしい。
どれもこれも素晴らしい。
僕の場合、もとより「歌声」よりも「サウンド」、音色や編曲に関心が向く傾向があるので、彼の作品は尚更に魅力的だ。
しかもそれに鉄壁と言えるテンプスの歌声が乗るのだから、文句の付けようが無い。
特に「スライ&ザ・ファミリー・ストーンやファンカデリック(※)のファンクに大きな影響を受けた」という、’70年頃からの作品群は本当に刺激的だ。
「リレー・スタイルのリード・ヴォーカルでのファンクなら、スライやファンカよりも、テンプスの五人で作る方が良いに決まってるだろう?!」と思ったかどうかは知らないけれど。
この時期のテンプスは、乱暴に書いてしまえば「ノーマンの道具」だ。テンプス側から見れば、ノーマンに彼の実験の場を与えていたと言えるだろう。少なくともレコーディングにあたっては、この時期のテンプスのリーダーはノーマンだったのだと思う。
アルバム・カヴァーに “Produced by Norman Whitfield” と明記されていたり、アルバム『マスターピース』の裏ジャケには彼の顔が(背景としてだが)大きく印刷されているのも象徴的だ。
「それはまるで役者の為に脚本を書いている様なものだった。」(バレット・ストロング)
座付き作家が役者に合わせて「あて書き」をしている感覚だった様だ。
冒険心溢れるサウンド、大胆な曲構成、挑発的で社会的な歌詞。人呼んで「サイケデリック・ソウル」。ポップスの常道を覆す音楽を、ファンクを、「弩」が付くファンクを、次々と発表していった。しかもシングル盤をメインとして。そこがアルバム単位だった他の多くとは一線を画している。
LPを買えない貧困層に、ラジオから流れる「ヒット・シングル」としてファンクを広めた功績はとても大きいと思う。
モータウンが完成させたとも言えるポップスの伝統を自ら破壊して前進するという、当時のモータウンの懐の深さにも感心する。「ウルトラマン」の中でウルトラマンを子供の敵にする話も放送してしまう円谷プロに匹敵する懐の深さだ。
代表的なものは「パパ・ワズ・ローリン・ストーン」であろう。パターンをひたすら繰り返す事によりグルーヴを高めるリズム・セクション、ギターはワウを踏みっ放し、危機感・不安感を煽るトランペットとストリングスの応酬が見事な組曲とも言える一曲だ。イントロがやたらと長く、リード・ヴォーカリストのデニス・エドワーズが「一体いつ歌い始めれば良いんだ?」と怒ったというエピソードは有名だ。
こんなに有名な大ヒット曲にしては、この曲のカヴァーは少ない。僕がぱっと浮かぶのはジョージ・マイクル(マイケル)ぐらいだ。これは、カヴァーして勝負をする気にならない程、オリジナル・ヴァージョンの出来が良いからなのではないだろうか。
この七〜八年の時期は、いわゆるソウル、「歌もの」を好むソウル・ファンには当然の様に評価が低い。
サウンドの冒険をやり過ぎているから。
歌が後回しにされているから。
おそらくその指摘は正しいのだろう。
しかし、それこそが「サイケデリック」であり、「ファンク」である証左である。ノーマンとしては、「バックがどうなっても彼等が歌えばテンプスになるから」という、彼等のヴォーカル・グループとしての強烈な記名性の高さがあってこその冒険だったのだろうけれど。
そこにはミュージシャンとプロデューサーの間に強い信頼関係があったのだと想像している。
そして、ノーマン贔屓の僕としては、この時期はひたすら上り調子であったと捉えている
。遂には自ら『マスターピース(傑作)』とタイトルを付けてしまうアルバムと曲を出すに至る程に(その次の『1990』というアルバムが最終。これも名盤)。
モータウンは、この頃に拠点をデトロイトからロス・アンジェルスに移している。時を同じくして、会社としての、いわゆる「モータウン・サウンド」という統一された音楽性が分散・拡大していく。音楽的にも人間関係の面でも、ベリー・ゴーディJr.社長の求心力が失われていく。
スティーヴィー・ワンダーやマーヴィン・ゲイは主導権を得て独自の革新的な路線に
ダイアーナ・ロスは王道エンタテイナーへ(ゴーディは彼女に肩入れした)
次世代アイドルとしてザ・ジャクスン(ジャクソン)・5がデビュー
というこの時期、
ノーマン・ウィットフィールド率いる(と敢えて書く)ザ・テンプテイションズも進化していった。
裏方なのでスティーヴィーやマーヴィンに隠れがちだが、ノーマンの功績は本当に大きい。
単純な好き嫌いで言えば、この時期のモータウンでは、僕はテンプス即ちノーマンの音創りが一番好きだ(※※)。
尚、この時期に彼が手掛けた他の作品には、
グラディズ(グラディス)・ナイト&ザ・ピップスとマーヴィン・ゲイ
「I Heard It Through the Grapevine
(悲しいうわさ)」
(制作はマーヴィンが先、発売はピップスが先)
エドウィン・スター
「War (黒い戦争)」
(テンプスへ提供したアルバム曲をノーマン自らリメイク)
ジ・アンディスピューテッド・トゥルース
「Smiling Faces Sometimes」
(これもテンプスとの競作、共にノーマンがプロデューサー)
といったヒット曲がある。
二十代の半ばから後半にあたるこの時期のノーマン・ウィットフィールド。才能・行動力・勇気といったものがピークに達していたのだろう。
その後、モータウンを離れてから設立した自らのレコード会社「ウィットフィールド」では、ローズ・ロイスぐらいしか大ヒット・グループを出せなかったのだが、実はこの時期の冒険もかなり面白い。マンマタピー!という訳の解らない名のグループとか。
ノーマン・ウィットフィールドの冒険精神は健在だった。
我が家のレコード棚はアルファベット順になっている。ある程度の枚数になるとそういう方は多いと思うが、「W」のコーナーに「Norman Whitfield」を入れている方は多くないだろう。彼名義のアルバムは無いのだから。僕はテンプス、ウィットフィールド・レコーズ作品他、ノーマン絡みのものをまとめて「Whitfield」に入れてある(※※※)。
プロデューサーのみの仕事でコーナーを作ってあるのは、「J」のジミー・ジャム&テリー・ルーイスと「W」のノーマンだけだ。
他は、例えばジェフ・リン絡みはELOに、アル・ムッケイ(マッケイ)絡みはEW&Fに、という具合に、先ず「その本人がメインのアルバム」が有るからね。ジャム&ルーイスもザ・タイム出身だけど、たった三枚(含再結成)だからね、参加作は。だから「J」。
「スターライト・クルージン」火曜日担当になった頃から「いつかノーマン・ウィットフィールド特集を」と思い続けている。かれこれ十年(笑)。彼のプロデュース作品をかけた際に、何度か口にした事もあったと記憶している。最近では一昨年、ジューン・ポインターが亡くなった時(彼女のソロ・アルバムでノーマン作品が有った)。
そうこうしているうちに、追悼特集としてそれを形にする事になってしまった・・・。又もや「後悔先に立たず」。
人見 ‘Hit Me!’ 欣幸, ’08. (音楽紹介業)
(※)Pファンクのもう一方の雄であるパーラメントは、ザ・パーラメンツというヴォーカル・グループとしてデビューしてはいるものの、まだ本格始動していない時期だ。
ちなみにノーマンが離れた後で、テンプスはPファンクのギターリスト、エディ・ヘイズル(ヘイゼル)を迎えて名曲「シェイキー・グラウンド」を世に出している。
(※※)その前、六十年代中頃のモータウンで好きなプロデューサーはスモーキー。
・・・何だ、つまりどっちもテンプスではないか、というオチ(笑)。
(※※※)ちなみにそれは「Whitesnake」と「The Who」の間だったりする(笑)。
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