中村とうようが亡くなった。
七月二十一日。享年七十九。
自殺とみられるという。マンション八階の自宅から飛び降りた模様。
部屋から自殺をほのめかす文書が見付かったそうだ.
こちらはスポニチのウェブサイト。
僕は基本的に渋谷陽一/ロッキング・オンで育っている(※)ので、ミュージック・マガジンやミュージック・ライフに対抗する形でロッキング・オンが存在した時代を知る洋楽ファンからすると僕は中村とうよう派では無いのだろう。
しかし。
別に嫌っていた訳では無い。そんな「洋楽」という狭い世界で選り好みをしても、まぁ順番はあれど忌み嫌い切り捨てる等という無意味な努力はしていない。
情報源として彼に、彼が興した出版社「ミュージック・マガジン」の刊行誌や刊行物に、彼が監修したレコード/ CDに、彼の解説文に、他にコンサートの開催等の彼の行って来た音楽文化普及への尽力に、感謝をしていない洋楽ファンは居ないだろう。
ラテン、ジャズ等の時代からの音楽ファン/評論家という世代なので、ロックどっぷりという以降の世代とは違う冷静さが(良くも悪くも)感じられた。
そしてこの二十年は極めて具体的に御世話になっているのだ。
今迄の僕の文筆業としての主たる発表の場はミュージック・マガジン刊行の「レコード・コレクターズ」なのである。中村とうようが「コレクターズ」の編集長だった時代には僕は執筆していないし面識も無い。しかし、彼が敷いたレールの上に僕が居る(世話になっている)のは確かだ。
日本で、知識や批評眼をもって音楽、特に洋楽ロックを語るという歴史を考えた場合、それを始めた人物のうちの一人であり、しかも発表の場=雑誌と出版社をも作った人物という意味では創始者なのだから、それこそアンチとして登場したロッキング・オン等も含めて、彼の影響下に有ると言っていいと思う。客観的に捉えれば「洋楽ミーディア(メディア)を共に盛り上げた」という歴史になるのだから。
事情は判らない。しかし、自殺だけはして貰いたく無かった。
「間接的にですが御世話になっております」と直接言える機会を永遠に逸して了った事を心より悔やんでいる。
(※)僕は1982年以降、「ロッキング・オン」と渋谷陽一が編集長となっている後続の各雑誌を購読しているのと並行して、90年頃からずっと「レコード・コレクターズ」も欠かさず購読している。掲載誌は送ってくれるのでとても助かる。そういう極めて具体的な意味でも中村とうように謝意を伝えたかった。
人見 ‘Hit Me!’ 欣幸, ’11. (音楽紹介業)
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