【末部に順次加筆予定】
この十数年にわたり、
ナイル・ロジャーズをギター・テックという立場で支えてきた
Terry Brauer テリー・ブラウアが亡くなった。
九月七日。
今年に入ってから、癌で闘病中であるという情報が伝わっていた。
ナイル・ロジャーズ以下、シーク(シック)の面々には、この日に出演する「Bestival」(於・英国ワイト島)の出番直前に訃報が届いたという。
こちらはナイル・ロジャーズによるフェイスブックでの第一報。おそらく近いうちに彼のブログでも取り上げるだろう。
長髪に口髭、”Nile Rodgers/CHIC” の刺繍のある野球帽で御馴染みだったテリー・ブラウア。
来日公演には、2003年から2012〜3年の年末年始迄の全てに同行していた。
彼はギター・テックであり、ギターそのものを運ぶ役であり、ギターだけでなくキーボード、ドラムズ、パカッション等のセッティングにも関わった(彼はトゥアーに随行する唯一の機材クルーであった)。
彼は実質的な舞台監督であり、タイム・キーパーであり、近年はナイル・ロジャーズのブログ用にライヴ中の撮影も担当するという多忙振り。
彼からナイル・ロジャーズのギター・ピックを貰ったという方も多いだろう。
誰よりも早く会場入りし、誰よりも後に会場を後にする。
開演前は舞台と控え室を行ったり来たり。
終演後も舞台と控え室を行ったり来たり。
日本人スタッフと細かい点をあれこれ打ち合わせ。
ギター・コンテストのコーナーでは挑戦者のケア(ギターを渡す役)。
「グッド・タイムズ」で観客を舞台に上げる際には舞台袖からの導線を作り、退場のタイミングも出す。
ナイル・ロジャーズが一人でラジオに出演する際にギターも持って行くとなった場合には局へ同行する。
ギター・テックというのはそういう仕事だから、と言って了えばそれ迄。
確かに。
僕は別に彼が他のギター・テックと較べて優れているかどうかという話をしているのではない。
彼は縁あってナイル・ロジャーズから十年以上にわたり重用されたギター・テックだった。頻繁な来日も含め、ナイルの順調なライヴ活動を最も近くで支えた一人がテリー・ブラウアだった、という事は紛れもない事実だ。
「穏和」という言葉が似合う人だった。英語でどういうのだろう?
楽屋や移動中のバス等での彼の位置はライヴ時と基本的には同じで、話の中心になる事は無いが、時折、皆が爆笑したり関心したりする気の利いた発言をする。気配りは怠らない。
険悪な空気が漂いだすとムードメイカーとして立ち回る。
「旅芸人一座の裏方」として理想的な性格であり能力の持ち主だと感じていた。
彼はまた、日本人スタッフにもとても好かれていた。日本人からすると、彼が小柄だったのも幸いしたと思う。僕みたいな「なんちゃってクルー」にもとても優しく接してくれた。
体力的にキツい仕事なのに、基本的にポーカー・フェイスで飄々とこなしていた。ニコニコという感じではないが、いつもニヤリとしていた。その笑顔が先ず浮かぶ。不機嫌そうな顔や怒った顔は知らない(そういう場面でしていたのは「困ったな〜」という軽い呆れ笑い)。
個人的には二人で色々と話す機会を持てたのもとても嬉しかった。メンバー間のあれこれ、良い事悪い事といった裏事情を色々と教えてくれたのも彼だ(書かない、いや書けない種類の事も)。
2011年の大阪公演の日、リハーサル後のちょっとした空き時間に、会場近くのスターバックス・コーヒーに行こうと誘ってくれた。その時には特に色々と話をした。
僕は縁あってナイル・ロジャーズの来日公演には1996年以降、クルー扱いで同行させて貰っている。
僕の見てきた限りで思うに、立場や関係性は違うけれど、テリーはバナード以降の「パートナー」だった。レコーディングもずっと一緒のリチャード・ヒルトン(キーボード、レコーディングではエンジニアも)と共に、最もナイル・ロジャーズと行動を共にしている人物がテリーだった。
それだけにナイル・ロジャーズの落胆は想像出来ない程のものだろう。その悲しみを、言葉は悪いけれど、やはり音楽で紛らわせるという選択を、今回もおそらく彼はするだろう。
来日を心して待ちたい。我々リスナーもテリーにむけて拍手を贈る事になるだろう。
考えてみれば、我々は「年に一度以上の頻度で会う知り合い」というのはそう多くないと思う。生活パターン、主な活動場所、活動範囲は全く違うけれど、僕にとってはそんな知り合いの一人であった。そう再確認して了うと余計に淋しい。
ナイル・ロジャーズ勿論、メンバー、トゥアー・スタッフ、現地スタッフ、楽屋訪問者、ファンといった、彼と一緒に過ごす全てから愛されていた。
一緒に過ごす全ての人間から愛される、そんな人間を、考えてみれば僕は他に知らないかもしれない。
癌との闘病から解放されて楽になったと思いたい。
安らかに。
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(9/9加筆)
2003年、彼の初来日時にモーションブルー横浜でのライヴが行われている。福岡、大阪、名古屋そして横浜と休み無しで連日二回のライヴを行う強行軍だった。
そんな風に迎えた横浜のある晩、僕はそれぞれギターとベイスを弾く友人とライヴを楽しんだ。終演後に彼等から「ギター・アンプのセッティング(ツマミの設定)を見せて貰えるか」と頼まれたのでテリーに訊いてみた。彼は快く我々を舞台に上げてくれた。
そのセッティングを見て友人がひとこと:「このセッティングであの音を出せるのはナイル・ロジャーズだけだぞ。そうこの人(テリーのこと)に言ってくれ」
テリーはこう答えてくれた:「その通り
。ナイルのスタイルはここ(右手首から先)で作られているんだ。ナイルの先生はバナード・エドワーズだったからベイス的な要素も強い」
。ナイルのスタイルはここ(右手首から先)で作られているんだ。ナイルの先生はバナード・エドワーズだったからベイス的な要素も強い」
十日以上にわたる異国の地での連日のライヴ、疲れもピークに達していたであろうその晩に、出会ってまだ十日ほどの、たどたどしい英語でしかコミュニケイト出来ない日本人を既に友人扱いしてくれた優しさ。ナイル・ロジャーズ以下、以前からのメンバーがそう扱ってくれていたからそれに合わせてくれたのだろう。そう思うと尚更、皆に感謝。
リハーサル中や本番中に近付いたり少し話をしたり出来るのは、当然のことテリーとマニジャのみ。僕を「なんちゃって通訳、伝令」として使ってくれる事もあった。
本番中はテリーの待機位置である下手の舞台下に一緒に居させて貰う事も多かった。ニヤリとし乍ら舞台を凝視するテリーの横顔を見る度に「このショウも無事に終わるな」と安心する。それはとても居心地の良い時間であり場所だった。
そんな、言ってみれば「僕だけの特等席」が永遠に失われて了った。
(以後、加筆予定)
人見 ‘Hit Me!’ 欣幸, ’14. (音楽紹介業)
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