来週と再来週の予定、即ち
4/ 8(火) 19:30-21:00
4/15(火) 19:30-21:00
の「スターライト・クルージン」で、
十二年前の四月に東京で急死した
バナード(バーナード)・エドワーズを偲びます。
十三回忌ですので。
(第一回の日には「DJ Diary」の番も回ってきたのでこちらも弔文としました。)
決して大袈裟では無く、僕の人生はこの ’96年4月でハッキリと分けられます。
以降、現在に至る僕は、敢えて乱暴に書けば「抜け殻」「余生」です。
尚、「抜け殻」以前、僕がシーク(シック)・ファンになる経緯に関してはこちらをお読み頂ければ幸いです。
さて、「抜け殻」。
そりゃあそうです。リアル・タイムで追いかけていられた「最高の音楽」が、以降、永遠に生まれない事になった訳ですから。
プツンと何かが途切れました。止まりました。
僕は二十九歳でした。
僕にとっての最高の音楽。それはつまりシークの中枢三人が揃って初めて生まれるアンサンブル。
ギター: ナイル・ロジャーズ(ロジャース)
べイス: バナード・エドワーズ
ドラムズ:トニー・トンプスン(トンプソン)
’84年を最後にこの三人が顔を合わせる事は殆んど有りませんでした(※)が、生きている限り「可能性」だけは持ち続けられた訳です。
その可能性が完全にゼロになった瞬間でした(その後、2003年にはトンプスンも亡くなりました)。
その時、僕は幸せの絶頂でした。しかも彼等の御陰で。
そして、バナード・エドワーズにもとうとう会えて話せてサインを貰えた直後に、しかも母国アメリカへ帰国する事無く、この日本で、彼は亡くなったのです。
1996年、「JTスーパー・プロデューサーズ 96 ナイル・ロジャーズ」のハウス・バンドとして、四月にシークは初めて来日する(1992年の再結成時と同様、トニーは不参加。96年のドラマーはオマー・ハキーム)。
その前年末、1995年の十二月に、このライヴのプロモウション取材を受ける為、そして十二月五日に行われた「プロデューサー講座(トーク・ショウ)」出演(開講)の為にロジャーズが来日している。
会場で「入り待ち」をしていた僕は、運良く彼に直接、分厚いファン・レターを渡す事が出来た。
これが僕がナイル・ロジャーズに会った最初だ。
・大ファンだ
・来日を長い間待っていた
・「おしゃれフリーク」が欧米のポップスの入口になった
・貴方の御陰で様々な音楽が好きになった
・貴方の御陰で部屋がレコード、CD だらけになり、その重みで危険だ
今よりも更に稚拙な英語力で書かれた手紙なので、どれだけ彼に伝わったのかどうかは不明だが、兎に角そんな想いの丈を書き連ね、十数年かけて調べて集めて作っていた、シーク三名のプロデュース/参加作品リストも付けた(その為に手紙が分厚くなった)。
「これだけ知っている。リストを完璧に近付けたいので他の仕事を教えてくれないか」と書き添えたが、まぁ今思えば半分は自慢(笑)。
その日のトーク・ショウの終わりで、彼は僕に就いて触れてくれて「He knows everything」と言ってくれた。
実際はエヴリシングでは無かったけれど。
有頂天。
そして四月。ライヴ当日がやって来た。初日は大阪城ホール。僕は横浜を始発電車で発ち、鈍行を乗り継ぎ乗り継ぎして大阪入り。
嘘みたいな話だが、ホテルと会場がすぐ近くだったので、メンバーは何と徒歩で会場とホテルを往復していた! 移動には橋を使わねばならず、つまり橋の上で待っているだけで誰にでも会えた。殆んどノー・ガード。スラッシュさえローディと二人っきりで普通に歩いて移動。目ざといロック野郎が駆け寄ってサインをねだっていた。ガンズ&ローゼズで来ている時には考えられないものね。
何とロジャーズは僕を憶えていた。橋の上で「あ、来た!」と呆けるている僕を見付けるなり、彼が先に話し掛けてくれた。
「去年、トーク・ショウに来たよな? リストをくれたよな?」
その場で、トゥアー最終日に行われるヴェルファーレでの打ち上げパーティに僕は招待された。
有・頂・天。
同じくその橋の上で、遂に、初めてエドワーズに会った。
あろう事か、たった一人でベイス・ギターと衣装を背負って歩いて来た。以前よりも痩せていたが、「前よりもカッコ良いなぁ〜」と思っただけだった。六十年代のテンプスみたいだなぁと思った。
今思えば、弱っていたのだろうか。
そんなとりこみ中・移動中(リハーサルの為の会場入りだった筈だ)の彼に、衝動を止められなかった僕は、「初めまして」「大ファンです」「待っていました」「ザ・パワー・ステイション(ステーション)の新作は?」等と迷惑な話し掛けを続けた(彼は歩みを止めなかった)。もしカメラやマイクを持っていたら、単なるはた迷惑なパパラッツィや芸能リポーターだ。
しかし彼は優しかった。
「ザ・パワー・ステイションの新作は丁度録音し終えた所だ。ジョン・テイラーが抜けたからベイスは俺が弾いた」(※2)
おお。
有 ・ 頂 ・ 天。
ライヴ初日。僕が丁度良いタイミング(静かになった所)で「Hit Me! NILE!!」と叫んだ所、ロジャーズは「YEAH! ヒット・ミー! 彼は何でも知ってるぜ (He knows everything.)」とマイクを通して指差しで応えてくれた。大阪城ホールに集まっていた大観衆の中で、僕以外の誰にも理解できない MC(笑)。
有 ・ 頂 ・ 天。
終演後、ホテルの一階ロビーで他のメンバーにも会えた。豪華な出演者からなるライヴだ。サインや写真撮影目当てのファンがかなり集まっていた。
上記のスラッシュの他にも、ジュラン・ジュラン(デュラン・デュラン)のサイモン・ル・ボンやスティーヴ・ウィンウッドも来ていたのだ。そう考えれば、今思えば少ないぐらいの人数だったかも知れない。
大人気ドラマーであるオマー・ハキームは来日回数も多いので知名度が段違いに高く、しかも実際の背も頭ひとつ高いので、ロビーではかなり目立っている。
キーボードのリチャード・ヒルトン。長年、ロジャーズのレコーディングに参加している人だ。顔はその時の公演プログラムで初めて知った。
「俺を知っているのか?」と訊かれたので「イエス! 貴方は○○でも△△でも□□でも演奏していますよね?」と畳み掛けた。それぐらいはソラで言える。「名前だけはずっと知っていた」と。
驚かれた。考えてみればそりゃあそうだ。
シンガーのシルヴァー・ローガン・シャープ。’92年の『シーク=イズム』からのメンバー。コーラス要員っぽい声質の歴代シンガーの中で、抜きん出た個性を持つ。高音のハスキー・ヴォイスは完全に僕のタイプだ。
パカッションのジェラード・ヴェレース。同じく『シーク
=イズム』他に参加。
元スパイロ・ジャイラ、更に前にはウッドストックのジミ・バンド!というのは、失礼乍らヴェルファーレでの打ち上げの際に本人から教えて貰う迄、スパイロ・ジャイラのメンバーだったのは知らなかったけれど。
もう一人のヴォーカリスト、ジル・ジョーンズ。ティーナ・マリーのバック、プリンス・ファミリーという経歴。プリンス・ファミリー期の彼女のアルバム『ジル・ジョーンズ』は名作だった。
スタジオ仕事だけでなく、ロジャーズとはアウトラウドを組んでいた事もあったキーボーディスト、フィリップ・セイス。フュージョン、ニュー・エイジ界でも知られた名前だ。
トランペットのマック・ゴロホン。「レッツ・ダンス」や「スキン・トレイド」(アルバム『ノトーリアス』)での素っ頓狂なトランペット・ソロは彼によるものだ。
なんて事を、「○○ですよね!?」等と一人ひとりに駆け寄っては話し、サインを貰った。
喜んでくれた(そりゃそうだ、今思えば)。
有 ・ 頂 ・ 天。
東京公演。日本武道館。
いち観客としてライヴを楽しみ、「楽屋出口で出待ちでもしようかな? バスから、誰かが手ぐらいは振ってくれるかな?」と思いつつ客席を後にしようと歩いていたら、警備スタッフの一人が僕を呼び止めた。
「すいません、あの人がお呼びですが。」
指差す先は最前列前の柵。
其処にロジャーズのマニジャーが居る。
「来い来い」というジェスチュア。
何と僕を見付けてわざわざ楽屋に招いてくれた。
楽屋で、シスター・スレッジ、スティーヴ・ウィンウッド、クロウル・シスターズ(笑)達に会えた。
そして。
そして。
遂に。
控室でエドワーズと少し話も出来た。
風邪をこじらせて、体調はかなり悪かった(翌日=トゥアー最終日の本番前に至っては、楽屋で点滴を受けて寝ていた程だ)。
それでも終演後、ロジャーズは、控室(大部屋=ケイタリング・ルーム)に出てきていたエドワーズのもとへ僕を連れて行って彼に紹介してくれた。
「バナード、こいつは凄ェぞ。ビッグ・ファンで、何でも知ってるんだ。」
「ああ、大阪で会ったよ。」
ここぞとばかりに、僕はレコードを一掴み(笑)取り出した。まぁ「何かのチャンスがあったら」と一式持って家は出ていた訳で。
エドワーズ目当てで厳選したレアものも含む。
シークのデビュー・シングル、彼のソロ・アルバム、ザ・パワー・ステイション、シーク初代歌姫=ノーマ・ジーンの12インチ、シスター・スレッジの売れなかった方の(笑)アルバム、初の単独プロデュース作である E.P.M.(エディ・マーティネズ[マルチネス])、シーク(シック)以前にバック・バンドのリーダーを務めていたニュー・ヨーク・シティのアルバム(演奏には不参加だが彼への謝辞が印刷されている)・・・。
「おいナイル、こいつはこんなものも持ってるぞ」
「イェー、こいつは何でも知ってるんだ」
「ワァオ、こんなのも持ってるのか」
無神経にも程が有るが、パイプ椅子に掛けてぐったりしている彼から、僕はサインを貰いまくった。(※3)
有 ・ 頂 ・ 天。
そして。
最終公演翌日の晩に、日本で、ホテルの部屋で、バナード・エドワーズはいきなり死んでしまった。
絶頂からどん底、地上どころではなく、マリアーナ海溝の一番深い所まで落ちた。
「でもナイルに較べたら、僕の落胆なんて大した事ぁ無いんだから」と言い聞かせ続けて早や十二年。
十二月八日近辺にいつも言っている事なのですが、僕は命日にかこつけて騒ぐのは基本的には嫌いです。死んだ時だけで良いじゃねえか、あとは遺族・関係者に任せようというスタンスです。
ですが、今回は許して下さい。
昨年末の J.B. 一周忌に続いての例外として大目に見て下さい。
十三回忌、勝手に行います。彼の追悼特集はこれで最後にします。
まぁ実は一昨年、シーク来日中の四月に「没後十年」もやったんですけどね(笑)。
一週目:エドワーズのグルーヴへの誘い(ビギナーズ・ガイド)
二週目:エドワーズのグルーヴへの更なる誘い(メイニアックな選曲)
を予定しています。
人見 ‘Hit Me!’ 欣幸, ’08.
(※)僕の知る限り、エリック・クラプトンがジミ・ヘンドリクスのカヴァーをした ’93年の二曲(プロデューサーはナイル・ロジャーズ)が、’85年以降で三人が揃った最初で最後。
その二曲は憎たらしい事に(笑)別々のジミのトゥリビュート・アルバムに収められている。
(※2)「録音は終了、残るはパッケイジ(アートワーク)」であった彼等の再結成アルバム『リヴィング・イン・フィア』は同年秋に発売された。クレジットされているメンバーは四人、写真は三人。エドワーズへの追悼の言葉が添えられている。
そして冬には来日公演を行っている。ロバート・パーマー(ザ・パワー・ステイョン名義で彼がトゥアーに参加するのは最初[そして最後・・・])、アンディ・テイラー、トンプスン。そしてサポートはガイ・プラット(ベイス、大阪にはフライトの遅れで間に合わず)とサンダーのルーク・モーリー(ギター、大阪ではベイス)。一曲目は「ゲット・イット・オン」、つまりいきなりトニーちゃんのドラムズ炸裂。
「日本人のレコーディングにも参加したよ。ユターカ・オゼーキ?!」
「尾崎 豊?」
「イエス。」
「ええええ〜?!」
「おまえにも知らない事があるんだな(笑)」
等と。彼は尾崎 豊の二枚組『誕生』に参加していた。
そして彼に会うのはこれが最後となった(その半年前、コネティカット州で行われたエドワーズの葬式の時に挨拶だけはしていた)。
(※3)シルヴァー・ローガン・シャープによると、然程社交的では無かったエドワーズは(とっっっっても社交的なロジャーズと較べれば誰だって人付き合いは悪い事になってしまうけれど)、あまりサインをしない人だったそうだ。
曰く「しかも最後のサインのうちの何枚かだから、それはとってもレアよ。」
コメント
SECRET: 0
PASS:
あっという間に13回忌なんですね。びっくりです。
番組の趣旨にあうかわかりませんんが、バーナードが作った
曲のなかで、
At last I am Free がすきです。シークのライブではシルバー
ローガンシャープが朗々としかも、パワフルに歌いあげてます。
あとはリアルタイムできいていたパワーステイション・サウンドです。
Some Like It Hot
独特のリズムは、当時、ものすごく、かっこいいとおもい
きてました。
ではでは、ひとっみーさんも、風邪にはきをつけてください。
Like
SECRET: 0
PASS:
久しぶりに、「At Last I'm Free」を番組で聴いた。
泣きそうになったよ。(笑) Like
SECRET: 0
PASS:
Taro
邦題「僕は自由」。
そのまんまだけど、字面が何だか良いね。
人見 Like
SECRET: 0
PASS:
初めまして。
私もあの4/12の大阪公演に行ってました。
でも次の公演で人が亡くなられているなんて考えてもみませんでしたが、ひょんな事で知りました。
私はChicの事をあまり知らずに行った事を申し訳なく思っています…
あの日のブートレ「Hit Me」 チェックしてみます。 Like
SECRET: 0
PASS:
通りすがりの さん
コメント有難う御座居ます。大阪、いらしたのですね。
客席から感じられたワクワク感は大阪の方が強かった気がします。僕個人の気持ちの問題かも知れませんが。そして彼等も、久々というより初めてといっていい大規模なライヴの初日という緊張感。そんな要素からか、盛り上がりは大阪初日がベストだった気がします。流石は大阪!
昨年春から、月曜夜11:30-0:00、彼等の関わった音楽だけをかける番組「G.T.R.-Good Times Radio」を担当しています。このブログ内でソング・リスト等を掲載しています。宜しければ是非。
人見 Like
SECRET: 0
PASS:
素敵なエピソードですね。
ナイルロジャースの愛情溢れる素晴らしい人柄に目頭が熱くなりました。 Like
SECRET: 0
PASS:
m さん
コメント感謝。
プロデューサーというのは基本的には裏方です。主役であるミュージシャンを際立たせる役回り。そして幸か不幸か自身名義の作品は商業的にあたった事がありません(中心メンバーであったシークを例外とすれば)。
そういう裏方を四十年続けられるという事は、つまり人柄が素晴らしいという事ですよね。「この人と一緒に仕事をしたい!」と思わせる人物なのですから。 Like