2008年4月8日の日記。
(翌日、湘南ビーチFMウェブサイトのトップ頁に掲載)
今週と来週の「スターライト・クルージン」では、僕の永遠のナンバー1、シーク(Chic、シック)の双頭リーダーの片割れである、故バナード・エドワーズ (Bernard Edwards) の十三回忌を行っている。
彼等への思い入れ等、詳しくは番組或いはブログをどうぞ。
1996年、十二年前の四月、初来日公演直後、帰国する事無く、彼は東京のホテルの部屋で急死してしまった。相棒ナイル・ロジャーズ、他のバンド・メンバー、スタッフ、そしてファンは、絶頂からどん底に突き落とされた。勿論、僕も。
だって、どんなにあがいても、僕にとっての「最高の音楽」である、彼等の合作による音楽が、今後もう二度と生まれない事が確定した瞬間だったのだから。
十七年間だけでもリアルタイムで彼等を聴いていられたのはとても幸せだった事、そして最後の最後に会えて、サインを貰えた事を「褒美」として捉えられる様に、最近やっとなれたかな。少し気楽になった。だからこんな風に「明るく讚える十三回忌」が出来る。
一回目はちょっと思い込み先行で構成がドタバタしちゃったけどね(笑)。反省。
補遺
ちなみに掲載日の四月九日は、日本全国「シークの日」でした(笑)。今年は僕の番組にぶつからない曜日だったのが残念。確率は約二分の一なのにねぇ。
1996年。
僕は確か ’94年より、湘南ビーチFMには平日夕方の番組「スキッパーズ・チェア」に月に一度か二度、そして土曜日の「湘南ウィークエンド・マガジン」に(録音も含めて)毎週、ゲストとして出演していた。当時のスタッフ/DJ、高橋みほさんと信太久恵さんには大変御世話になった。
「スキッパーズ・チェア」内の僕のコーナーは「人見欣幸の音楽三昧」と名付けた。
その「人見欣幸の音楽三昧」の初回(※)に「シーク・ヒストリー」は開始されている。勿論ファース・アルバム「シーク」のA面。
’77年からずっとほぼ年代順にオン・エアして来て、そろそろ ’92年を紹介し終えるという所。やっと半分(笑)。まぁ其処からこっち十五年は、音源量がぐっと減るけれど。
そしてバナードが亡くなった直後、多分 ’96年五月の「音楽三昧」で、長時間に亙る追悼番組を行っている。多分、その日の夕方の生放送時間帯のほぼ全編。信太さんに、電話越しに、おっそろしく低く暗い声で懇願したのを何と無く憶えている(笑)。
ブログで既にシークへの過度の思い入れやバナードにまつわる重くて暗い文章は色々と書いているので此処では繰り返さない。それに、今後どれだけ書くか自分でも判らない(笑)。
近く「『重い』文章の続き」は書くつもりではいる。つまり彼が急死した直後の僕の呆れた暴走についてを。
もう少し文章力(主に整理能力)と、それを公にする事への心の準備が必要だけれど。これは本当に身を削る作業なので。
一応、来週の番組迄を目標にね。
それが書けたら、それをまとめられたら、僕の中での喪が何割か明けるのだと思う。
あの時、僕の中にぽっかりと空いた穴は、基本的にずっとそのままだから。
人見 ‘Hit Me!’ 欣幸, ’08.
(※)特集は
「僕のFM番組デビューに合わせて、デビュー曲やデビュー・アルバムの一曲目」。
栄えある(?)一曲目は
Sittin’ on Top of the World /Lenny Kravitz, ’89.
だった。
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