長岡秀星 が亡くなった。
六月二十三日。享年七十八。心筋梗塞。
こちらはNHKのニューズ・ウェブ。
僕が初めて洋楽のレコードを買ったのは1979年、中学一年の初夏。当時出たばかりだったアース、ウィンド&ファイア・ウィズ・エモーションズの30センチ・ジャンボ・シングル「ブーギー・ワンダランド」。当時は12インチ・シングルとは呼んでいなかった(少なくともCBS/ソニーは)。
新作アルバムからの先行シングルで、帯裏に告知が印刷されている。”I Am(邦楽未定)” と(「邦楽」は「邦題」の誤植だろう)。
『太陽の化身』『暗黒への挑戦』『灼熱の狂宴』『魂』『太陽神』に続くアルバムの邦題である。担当氏は悩んだ事だろう。
でも無知で無垢だった中一の僕は意味も考えずに「今度のアルバム・タイトルは『邦楽未定』というのか」と勘違いしていた。また漢字で来たのか、と。
御存知の通り邦題は『黙示録』となった。
「宇宙のファンタジー」に間に合わなかった僕は「セプテンバー」で彼等を知り、好きになった。それに続く新曲だったので期待し、気に入り、購入に至った訳だ。
「セプテンバー」は前年に発売された『ベスト・オヴ(vol.1)』に収録された新曲。79年春には来日公演も行われるという事で日本では特に盛り上がっていた。
シングルと二枚のアルバムは、いずれも長岡秀星のアートワークに包まれている。
僕の音楽人生は、少なくとも洋楽レコードの購入は彼のアートワークを手に入れる事と共に始まった事になる。
そしてこの時期、EWFとその周辺、喜多郎のシルクロード、ディスコの色々、スペイシーなロック等、長岡秀星は様々なレコード・ジャケットを手掛けていた。雑誌の記事や広告等ではそれがウリにもなっていたので、僕も彼の名を直ぐに強く意識し始めた。但し書きが無くても彼の絵だと判る、それ程の高い記名性と大衆性を持っているLPジャケット・アートは、ロジャー・ディーン、ヒプノシス、アンディ・ウォーホル、ペーター佐藤そして長岡秀星のものぐらいだっただろう(その数年後に鈴木英人が加わる)。
ノーマン・シーフの写真が独特の質感を持っていると気付くのはかなり後になっての事だ。
考えてみればLPが音楽ソフトのメインだった時代は三十年ぐらい。シングル盤から主役の座を譲り受けてからは二十年ぐらいだろうか。
成熟期は七十年代、絶頂期は八十年前後だろう。
現在を嘆く声もあるが、長い目で見ればあの頃が特殊な時期だったという事になる。そういう特殊な時期に十代だったのは本当に幸運だった。
長岡秀星はまさにその「LP=LPアートワークがピークだった時期」に多くのアルバムに素晴らしいイラストレイションを提供した。
後年(数年前なので「晩年」とせねばならないのが辛い)、彼はLPのサイズだったから仕事を引き受けたのだと語っている。
CDのサイズでは燃えないというのは、多くのアートワーク担当者の持つ想いだろう。だからCDパッケイジでは変形・外箱・ジャバラ式の見開き・頁の多いブックレットの構成等で凝りたくなる。バンッと一枚の絵で勝負するにはサイズが小さいのだ。
それは購入する側も同じで、二千五百円なり三千円なりの値段で手に入れる「もの」として、どうもレギュラー・サイズのCDプラスティック・ケイスは物足りない。
「音を手に入れる」のが主たる目的なのは勿論なのだが、あの時代を身体が憶えている世代は、周囲のあれこれも一緒に手に入れていたという想いが強いと思う。あるアルバムの話題が出ると、決まってそのジャケットの話題も出る。CD中心の時代になってからはその「セット感」は落ちたと思う。
CD時代になってから、長岡秀星は潔くジャケット・アートの仕事からは離れた。やる気をかき立てる仕事ではなくなったのだろう。
CD再発された彼が手掛けている作品を見てみるといい。同じLPが手元にあるのであれば見較べてみるといい。
物足りない。
彼のイラストレイションは色が派手で線がシャープ。大味だとか子供騙しっぽいといった悪口もなくなない。そういう声も出るであろう事を承知の上で、「判り易さ」「キャッチーさ」つまりポップさを表現した。まさにEWFの狙いと重なっていたからこそ、長岡秀星のイラストレイションに包まれたEWFのあの数年間の作品群は素晴らしかった。
そのポップさを表現するにあたり、三十センチ四方のあのサイズは彼にとって必要だった。二倍、時には三倍・四倍と連結しての作品にもなった。
そして彼の絵は、軽薄なディスコにも、民族音楽をシンセサイザーで置き換えた喜多郎にも、メッセイジ色の強いロックやソウルにも、究極のポップ音楽といえるELOにも対応した。
彼は上の世代だが、クライアントであったミュージシャンは(時期が集中している事もあり)若い頃にヒッピー、フラワー・ムーヴメントの影響を受けた世代が多い。その世代の欧米で好まれた仏教やヒンドゥー教、インド文化の極彩色に通じる色彩感覚と、勤勉なアジア人を連想させる直線的なレイアウト、しかし幻想的な仕上がりという画調が好まれたのだろう(東洋人に対する或る種の誤解もあって)。
そして何より、彼は「大衆音楽の外皮」である事からはみ出なかった。高貴・難解な「お芸術」にはならなかった。そこが何よりも素晴ら
しい。
しい。
確実に僕の一部を作ってくれたかただ。感謝しか無い。
一部ではあるが、以下を彼の「作品」を展示するギャラリーとして彼への謝意・弔意を表したい。
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