うわぁ。今年は彼で「訃報ラッシュ」が始まってしまうのか。
Willie Mitchell ウィリー・ミッチェルが亡くなった。
一月五日。享年八十一。先月十九日に心停止を起こし、以降入院していたのだという。
メンフィスの病院にて死去。不謹慎にも何だか「それは良かった」「そうじゃないとね」と思っている。
何てったって「メンフィス・ソウルの重鎮」と言われて四十年という人物なのだから。
詳しくはこれから調べます。ひとまず一報。
special thanks to Peter Barakan (‘Barakan Morning’)
(彼のラジオ番組[生放送]で今し方知った。)
(以降、少しずつ加筆します。最新の加筆:1/12)
こちらは吉岡正晴氏のブログに掲載された速報。そして翌日掲載の本文。
何と言っても、Al Green (アル・グリーン) が看板だったメンフィス・ソウルの代表レーベル、Hi (ハイ) ・レコーズ作品のプロデューサー/アレインジャーとして知られる人物(オーナーでもあった)。
アル・グリーンのオフィシャル・ウェブサイトのトップは二人の写る二枚の写真になっており、
「A Magical Collaboration
Gone, but never, ever forgotten.
Willie Mitchell (March 23, 1928 – January 5, 2010)」と。
万感の想いが簡潔にまとめられている。
アル・グリーン同様、ハイの所属だったAnn Peebles (アン・ピーブルズ)、Syl Johnson (シル・ジョンスン[ジョンソン])も彼が手掛けた面々。近年グリーンが発表しているブルー・ノートからの三枚中の一・二枚目もミッチェルが編曲、三枚目に彼は関わっていないものの、クェストラヴら若手がミッチェルの手法・音楽を研究し踏襲・継承している充実作であるので、その意味で拡大解釈をすればこれもミッチェルの息が間接的にかかった一枚であり、僕の番組でもそれぞれが新譜で出たタイミングで紹介した。三枚目には愛しのコリーヌちゃんも参加してたしね(笑)。
兎に角この三枚はソウル・ファンには堪りませぬ。
そして、Orito (オリト) のデビュー・アルバムのプロデューサー/アレインジャーであった事も特記しておきたい。少〜しだけではあったけれど、オリトさんの知り合いだった一人として。
あの世でオリトさんと再会し、早速一緒にスタジオ入りする準備を始めていると信じたい。
オリトさんがこのブログを見る事が出来るのなら、「今ならアル・グリーンもまだこっちだし、独り占めですよ!」と伝えたい。
あの世の方とのパイプを御持ちの霊能者の方々、是非、御願い致します。
僕がリアルタイム以前のソウルに入れ込み始めたのは十代後半、八十年代半ば以降で、アル・グリーンを好きになったのもその頃になる。完全なる後追い。
大学に入り、アパート住まいを始めた街にあった輸入盤店・中古盤店に日参。それ迄はエアチェック(つまり購入するのはカセットが殆んど)がメインだった僕の音楽生活に、それ迄は月に数枚(※)だった「レコード購入」という項目が急速に入り込んで来た。
ロック、ポップス、日本のロックそしてソウル&ディスコ、それ迄エアチェックしていたものをどんどんレコードとして手に入れ始めた。実はシーク(シック)のLPを初めて買ったのも大学に入ってからだ。
だって柏にはディスクユニオン、新星堂(しかも輸入盤ディスク・インも併設!)が有って、常磐線&京浜東北線で銀座ハンターにも行けたんだもの。仕方無いでしょ(笑)。
ソウルの指南役は山下達郎、ピーター・バラカン、大伴良則のラジオ番組、吉岡正晴(※2)のライナー・ノート、ピーター・バラカンの処女出版「魂(ソウル)のゆくえ」等々。
そしてプリンス。新譜を毎年出してはスライ、JB、P-ファンク、ジミ・ヘンドリクスといった「ファンクの素」をどんどん教えてくれる彼も、僕にとってはミュージシャンであり先生だった。
そして、そういった個人的な嗜好以前に、八十年代後半から九十年代初頭という時期は、時代の風もブラックの味方となって吹いていた。
プリンス、マイクル・ジャクスン(マイケル・ジャクソン)は別格の存在、ウィットニー(ホイットニー)・ヒューストンもファースト&セカンドの時点で既に女王、元ザ・タイムの面々(特にジャム&ルーイスとジェスィ・ジョンスン[ジェシー・ジョンソン])、L.A.&べイビフェイスが大活躍、二十歳そこそこのニュー・エディション・ファミリーが大アイドルとして君臨、テディ・ライリー率いるガイが登場、という時期である。レコード会社という視点でみると、MCAとA&Mのブラック・コンテンポラリー、ファンクへの力の入れ方が凄かった。
ジェイムズ(ジェームス)・ブラウンのCD化が急に充実し始めたのもこの時期。英国人クリフ・ワイト(ホワイト)が監修した、選曲も資料もとても充実した(※3)編集盤の数々でJBの足跡を体系的・論理的に整理して手に入れる事が出来る様になった。その数年前、山下達郎が番組で二週にわたり特集した「サウンドストリート・JB特集」で本格的にハマり始めた僕も含むJBファン初級者にとって、「クリフ・ワイト印の付いたJBのCD」は本当に有難かった。
ロックもソウルも来日公演も多かった。ポール・ムカートニー(マッカートニー)のソロ初来日やザ・ローリング・ストーンズ初来日も1990年。
日本が浮かれていた時期で、何てったってジュリアナ東京である(笑)。勿論其処には僕は無関係だったけれど、有明や芝浦といった、湾岸(少し前迄は「夢の島」と呼ばれて蔑まれていた地域を中心としていた)のコンサート会場を中心として数多くの来日公演が行われた。
ブーツィ・コリンズ、ジョージ・クリントン、ザ・テンプテイションズ、ザップ&ロジャー、リヴィング・カラー、スティーヴィー・サラス、レニー・クラヴィッツ、チャック・ブラウン&ザ・ソウル・サーチャーズ、トラブル・ファンク、タブー・ナイツ(Alexander O’Neal & Cherrelle)、ジ・S.O.S. バンド、プリンス、MJ、グレアム(グラハム)・セントラル・ステイション、ジェイムズ(ジェームス)・ブラウン(※4)、EW&F、・・・キリが無い。幸せな時期だった。
そんな中、1990年に行われた来日公演のチラシが僕の手元に残っている。残念な事に僕は観ていないのだけれど。
Memphis Soul Nights
Otis Clay
Ann Peebles
David Hudson
The Master of Memphis Sound Willie Mitchell and His Band
ウィリー・ミッチェルが来ていたのだ。いや当時も気付いてはいたのだけれどパスしてしまったのだ。嗚呼・・・。おそらくジョージ・クリントンとピンク・クラウドとスティーヴィー・サラスと、という辺りで手一杯だったのだと思う。
公演は神奈川県民ホールでも行われている。
又もや後悔先に立たず。行っていれば良かった・・・。
という事で、やっと本稿の本編であるハイである。主役であるウィリー・ミッチェルである。
(続く)
(※)中学〜高校の頃はザ・ローリング・ストーンズを新品で順番
に毎月一枚買って、ロッキング・オン、ミュージック・ステディ(隔月刊)、カセットを沢山、それで余裕が有れば中古盤をもう一枚か二枚という具合。その分、あの頃は厳選に厳選を重ねた手堅い基準でレコードを購入していたよなぁ、と遠い目。
(※2)吉岡さんは時折大伴良則の番組にゲストとして出演されていた。勿論ソウル多めの回で、つまり僕が好きな音楽ばかりが紹介された。その後、こんなに御世話になる事となるとは夢にも思わず(笑)。
(※3)以前のJBサマのアルバムにはプロデューサー(殆んどの場合は本人)とソングライターが明記してあるだけで、録音時期・場所はおろか、メンバーが載る事さえ稀だった。演奏と、歌の中で「ブ〜ッツィ!」等と御大が言っている(笑)事を手掛かりにメンバーを類推するしか無かった。
偉大なるクリフ・ワイト他の苦労により、それらがCDブックレットに明記され始めたのは『The CD of JB』以降である。しかしその日本盤はその資料頁がバッサリ切り捨てられていたので、真面目なJBファンは怒りをもって輸入盤を買うという行為で対抗(?)したものだ。
(※4)「ジャパン・エイド2」が僕のJB初体験。暫く「セックス・マシーン」しか、JBしか、ハード・ファンクにしか反応しない身体になっていた。シークさえも、好んで聴くのはストリングズ控えめの後期が多めだった。
以降、基本的に僕が好きな音楽は「ファンク及びファンクを内在させているロック、ポップス」である。トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズやAC/DCもそういう聴き方。
クラシックの影響が顕著な英国ハード・ロック/ヘヴィ・メタル(大きく括ればディープ・パープル系)にあまり反応しない身体になった。
人見 ‘Hit Me!’ 欣幸, ’10. (音楽紹介業)
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