月曜日に届いた手術の一報から一週間と経たぬうち、訃報となってしまった。
Bruce Springsteen & The E Street Band
ブルース・スプリングスティーン&ジ・E・ストリート・バンド
のサックス奏者、というよりブルースの相棒である、
「ビッグ・マン」こと
Clarence Clemons
クラレンス・クレモンズ
が亡くなった。
六月十八日。享年六十九。脳卒中の合併症。
ジ・E・ストリート・バンド、二人目の物故者である。
こちらは時事ドットコム。
こちらはバークス。
こちらは続々と「クラレンス・クレモンズの思い出」が加筆されている、ソニー洋楽担当氏のブログより、彼の逝去を伝える回。
(七月七日加筆→そして同ブログに掲載された、葬儀でのブルース・スプリングスティーンの弔辞和訳(訳:五十嵐 正))
日曜日午前中、ラジオ番組の生放送中に訃報に接した。それは僕にとって最悪と言えるタイミングであって、番組はガタガタで沈んだものとなった(済みません言い訳です)。
1942(昭和十七)年ヴァージニア州ノーフォーク生まれ(何故昭和も併記したかと言うと僕の両親が十六年生まれだからだ)。活動はニュー・ジャーズィー、晩年は自宅がフロリダにあったというから、基本的にずっと合衆国の東海岸の人だった事になる。
今回始めて気付いたが(それとも忘れていただけで、読んだ事、有ったのかなあ?)、ブルース・スプリングスティーンと出会う前、六十年代の録音セッションで、Tyrone Ashley’s Funky Music Machine と行ったものがあるという。このバンドには後に P-ファンクの重要人物となる Eddie Hazel Ray Davis Billy ‘Bass’ Nelson が居た。
クレモンズと言えば先ずブルース・スプリングスティーンの相棒である。
ジ・E・ストリート・バンドの全盛期メンバーのうち、デビュー作『Greetings from Asbury Park, N.J.』から参加しているのはベイシストの Garry B. Tallent ギャリー(ゲイリー)・タレントと彼だけだ。以降、サックス、パカッション、コーラスとして、彼の(E・ストリート・バンドとの)作品全てに参加している。
何と言っても出世作であるサード『Born to Run 明日無き暴走』のアルバム・カヴァーだ。
ブルースが寄り掛かり、見開きジャケット裏でサックスを吹いているのかクレモンズ。これで彼を知る方が多いだろう。
ブルース・スプリングスティーンはロックン・ロールを復興させた人物と言われる。精神的・オン学的にもそうだが、楽器編成で言えば「サックスに再び光をあてた人物」でもある。
ジャズ/ジャンプ・ブルーズからの流れもあり、五十年代の R&R ではエレキ・ギターと並んでサックスがリード楽器である事が多かった。「(We’re Gonna) Rock Around the Clock」からしてそうであるし、ドゥー・ワップもそう。特にソロに目を向けると、ギターは、ブルーズ〜リズム&ブルーズの方がよりフィーチュアされていたのではないだろうか。
やがて、どちらかと言うと後者の影響をより強く受けた六十年代半ばのザ・ビートルズの席巻以降、ポップ音楽に於けるソロ楽器の主役はギターとなり、例えばサックスを擁したザ・デイヴ・クラーク・ファイヴが古いスタイルとされた。その後、七十年前後に登場するシカーゴ、タワー・オヴ・パワー等の場合にはホーン・セクションのいち楽器としてのサックスであったり、スライ&ザ・ファミリー・ストーンではトランペットにその座を譲ったりしていたとも言える(ジェリー・マーティーニは大好きなんですよ)。
そんなザ・ビートルズ達による変革から十数年、再び「ロックのソロ楽器としてのサックス」を、古臭いものとしてではない形で甦らせたのがブルース・スプリングスティーン&ジ・E・ストリート・バンドであり、サックス奏者であるクラレンス・クレモンズその人であったと言える(※)。
彼等の成功以降、同じニュー・ジャージー州出身の仲間達=人脈上は先輩であるサウスサイド・ジョニー&ジ・アスバリー(アズベリー)・ジュークスやリトル・スティーヴン&ザ・ディサイプルズ・オヴ・ソウル、ワシントン州のジョン・キャファティ&ザ・ビーバー・ブラウン・バンド(※2)、ミシガン州からはボブ・シーガー&ザ・シルヴァー・ブレット・バンド(※3)、西海岸からはヒューイ・ルーイス&ザ・ニューズ(※4)等、サックスを大きくフィーチュアした R&R バンドが続々と登場する。仲間であるサウスサイド・ジョニーとリトル・スティーヴンの作品にはクレモンズ自身も参加している。ブルースがカムバックを後押しした事で知られる Gary U.S. Bonds ギャリー(ゲイリー)・U.S.ボンズの八十年代の作品にも参加している。
そして、八十年代当時、クラレンス・クレモンズに注目していた方ならば、彼のリーダー・アルバムもきっと憶えているだろう。
Clarence Clemons & The Red Bank Rockers:
1983 RESCUE レスキュー影に叫ぶ
Clarence Clemons:
1985 HERO
1989 A Night with Mr.C
(不勉強にも、以降もライヴ盤等を出しているのは知らなかった。)
特に『レスキュー』は熱さ、汗、演奏、歌、楽曲、・・・つまりカッコ良い R&R の要素が全て詰まった素晴らしい一枚。
残念な事に、ジ・E・ストリート・バンドとの単独来日公演としては唯一となった1985年のジャパン・トゥアーを僕は見送っている(※5)。その時の先輩・友人達の話や、各種ライヴ映像を観ると、クラレンスはバック・バンドの一人というより、ブルースと並ぶフロント・マンというか、兎に角「ソロ・プレイヤー」としてフィーチュアされる立場であり存在である事が解る。パートとしてもそうなる役割であり、体格的にも見映えが良い。特にサード “Born to Run” 収録の ‘Tenth Avenue Freeze-Out’ の歌詞には、彼との出会いや遣り取りが元々織り込まれている。勿論、それをライヴで演奏する際、彼は殆んど彼と並ぶ主役と言って良い。後年、同曲はライヴでメンバー全員を紹介する長尺の曲へと進化するが、そうなった際にも、最後の最後に「そして!御待たせ致しました!」とばかりに紹介されるのはクラレンスだ。
それはさながらジェイムズ(ジェームス)・ブラウン・バンドに於けるメイシオ・パーカーであり、EW&F に於けるアンドルー・ウールフォークであり(※6)、イアン・デューリー&ザ・ブロックヘッズに於けるデイヴィー・ペインであり、(当然のこと)佐野元春に於けるダディ柴田、現在は山本拓夫である(※7)。
欠かせないパートでありパートナーであり存在であった。
ブルースが新バンドと或いはソロとして活動をしていた九十年前後を経て、ジ・E・ストリート・バンドが再編される(別活動も並行された)。2009年初頭に発表された『Working on a Dream ワーキング・オン・ア・ドゥリーム』、その直後のスーパー・ボウルのハーフ・タイム・ショウ、同年六月のライヴを翌年 DVD 化した『London Calling / Live in Hyde Park ロンドン・コーリング/ライヴ・イン・ハイド・パーク』と名演、名盤を残した彼等は再び活動休止を宣言している所だった(※8)。
最年長で
あったクレモンズ、先に逝って了っていたダニー・フェデリーシ(フェデリーチ)を思うと、今後のバンドとしての活動形態は変えて行かざるを得ないのだろうとは思っていた。例えば大規模なトゥアーはやめて、地元で時折ライヴを行うのみという様な。いずれにせよ彼等としての来日はもう望めないだろう、その時折行われるであろうライヴを商品化してくれればそれで良しとしよう、等と思っていた。
それさえも、少なくともクレモンズ入りのライヴ映像を観る事さえも、こんなに早く叶わなくなってしまうとは思わなかった。きっと次のライヴ(そして DVD)は追悼ライヴとなるのだろう。
昨年末に NJ で行ったライヴが彼を擁したブルース最後のライヴとなった様だ。
「日曜日に倒れて手術」の報を知った月曜日以降、家ではずっとブルース・スプリングスティーンを聴いている。順番にセットして年代順に聴いているのだが、実はまだ四枚目『Darkness on the Edge of Town 闇に吠える街』がプレイヤーから出て来ない状態だ。未だ『The River』に行けないままだでいた。
「皆さん祈りましょう」という段階で、火曜日に番組を行えなかったのが本当に悔やまれる。選曲上はほぼ同じ形となると思われるが、しかし今度の火曜日は逆の心持ちでそれらをオン・エアする事になって了った。
勇気を出して『The River』へと進むべきか。というのも、リアル・タイムで最初に出会ったアルバムがこれになるので、嗚呼、涙腺直撃は必至なのだ。
ロウ・ティーンで R&R に、ブルース・スプリングスティーンにやられて、
「その大騒ぎは何なの?何だかなぁ」と巷の俄かファン(断定、そしてそれは正しかった)に呆れつつも『Born in the U.S.A.』を聴き続けて、
上記の通り来日公演には行けなかったけれど、五枚組(LP では)ライヴも新譜で買っちゃったりして、
といった十代を過ごして、
ドキュメンタリー「Blood Brothers」を喜び、
ライヴ・アルバム/DVD『Live in New York City』に驚愕し、
『Magic』に感動しと、
三十年以上、基本的にそのままで現在に至っている四十男には辛いのだ。
脳内再生している時点で既に危ないのだ。
三年前のダニー死去時のブログを見た。馬鹿みたいにあの時と同じ事をしている自分に気付き呆れている。
(後日加筆予定)
(※)尤も、ヒット・チャートに目立って登場しなかったというだけで、デビュー前のブルースも含め、五十年代以降、アメリカの「おらが街の人気バンド」は常にサックスをフィーチュアしていた筈だ。おそらく現在も。
(※2)当初、僕もそう思っていたが、彼等はブルースの物真似バンドでは無い。1972年から地道な活動をして来たがデビューは八十年代に入ってから。似ていたのは事実だが、真似をしていたのでは無く、同じ時代に同じ環境で育ち、似た感性を持っていたキャファティは、運悪く「似た声質」も持っていたのでデビューが遅くなったと言えるだろう。ライヴを観た友人=中嶋寿修によると「この手のバンドの中で最強」のテクニックだという。
(※3)御存知の通り、シーガーもブルースより歳上であり六十年代にデビューしているが、相棒サックス奏者=アルト・リードを擁したザ・シルヴァー・ブレット・バンドを御披露目したのは ’73年であり、アリーナ〜ステイディアム級の人気を得るのは ’75年以降。クラレンスとアルトは並列させて「サックス復権に大きく貢献した」とするべきかも知れない。
(※4)ルーイスはザ・ニューズ結成前に組んでいたバンドであるクロウヴァー時代に英国パブ・ロック・シーンで活動しており、R&R 復権という意味ではアメリカのそれとイギリスのそれを継承した人物と言える。優れたハモニカ奏者としても知られ、クロウヴァー時代の彼の演奏はデイヴ・エドモンズ(楽曲提供も)やシン・リズィ(リジー)の作品で聴ける。端的に言って「馬鹿カッチョ良い」。
(※5)1985年春。十八歳、大学進学祝いとして親にねだったチケット。同時期のクイーン来日との二者択一だった。(結果として)フレディ・マーキュリー入りクイーン最後の来日公演を観た事になるので、その選択に悔いは無いが、アルバイトをして何とかブルースも観るべきであったという意味での悔いは残る。ダニーもクラレンスも亡くなった今となっては尚更に。
(※6)アンドルーは、後にザ・フィーニッックス(フェニックス)・ホーンズと呼ばれる事となる無敵のホーン・セクションとは別のソリスト扱いだった。正式メンバー九人(或いは八人)に、彼だけは含まれていた。
(※7)偶然にも六月十八、十九日に行われた佐野元春のライヴ(大地震で延期されていたもの)での彼とサックス奏者はこんな感じだったという。
「佐野君の衣装はタイトな黒のパンツに白いシャツに黒いベスト。74〜75年頃のチンピラスプリングスティーンのまんま。サックスの山本拓夫はサングラスにスーツ。ちょい小さめのクラレンス。背中合わせでもたれ合って演奏する様は、紛れも無いEストリートバンド。」
(十八日の模様)
(※8)シーク(シック)関連の補足:
この十数年で重用されているコーラス担当=シンディ・マイゼールとカーティス・キング,Jr. はNYのコーラス要員としては大御所中の大御所、八十年代から名前を其処此処で見る事が出来る。ナイル・ロジャーズの数多くのプロデュース作品でも同様だ。
八十年代前半、『ザ・リヴァー』〜『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』期の録音拠点はシークと同じザ・パワー・ステイション。エンジニアは共にボブ・クリアマウンテン。シーク近辺とは ’80年を境に離れ、彼はプロデューサー/エンジニアとしてロック畑へ進出していく。ザ・ローリング・ストーンズ、ブライアン・アダムズ、ザ・プリテンダーズ、ボン・ジョーヴィ等。ライヴ・アルバムやライヴ感溢れるステューディオ(スタジオ)盤を作るのが得意だ。
メンバーも録音場所も同じなのに、シークの音は ’80/’81年で大きく変わる。彼等自身の発想の変化だけでなく、「ボブ・クリアマウンテンが離れた」のも理由の一つだと僕は考えている。
最近のブルース・スプリングスティーンとも、最近の特にライヴ作品でミクサーを担当している。
人見 ‘Hit Me!’ 欣幸, ’11. (音楽紹介業)
コメント
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@rousseau96311 yg さんより
6/20 13:07 付け twitter への呟き(転載許可感謝)
「彼の演奏はEストリートバンドでしか知らないが、Bスプリングスティーンの音楽に不可欠だっただけでなく、大好きだった佐野元春&ハートランドへの影響も。今更ながら彼の魅力を噛みしめて合掌」
1985年の来日公演を御覧になられているそうです。 Like