2007年2月20日の日記。
(翌日、湘南ビーチFMウェブサイトのトップ頁に掲載)
音楽雑誌にJB追悼の記事が出始めた。
流石に圧巻なのがBlack Music Revue誌。姉妹誌(来週刊行、こちらはCD付きという事なので尚更楽しみ!)と合同での追悼大特集だ。前回の拙文で触れた「『JBは死なない』と思っていた旨の(ラジオDJ各氏の)言」を、文字媒体でも多くの方がされており、ホントみんな同じ考えだったんだなァ、と改めて。
生前から、「何かしらの不滅の法則下にある一 種のエネルギー体」の様な存在だったのだろう。だからその存在感は今後も変わらないのだ、ろうか?
人の死に際し、大抵の場合は何故か涙も出ず「そんなもんかねぇ」とそれを冷静に受け入れてしまえる僕だが、前出BMR誌の特集扉になっていた、マントショウの写真を初めて目にした時は、少しグッと来てしまった。
最近は ‘70年代後半のJBを集中的にどか〜んと体に入れております。
補遺
’70年代後半のJB:
狭義でいう「リズム&ブルーズ愛好家」が好む六十年代中頃迄、
ファンク・ミュージックの創始者として急速に進歩・変化する人としての六十年代後期迄、
オリジナルJB’sを従え、王座に君臨する七十年、
The JB’s名義のアルバムも出し始める等、余裕且つ充実の七十年代前期。
それに比して、以降のJBは精彩を欠いているというのは事実だが、それは、
「とんでもなくとんでもない」
のが
「とんでもない」
になった、という具合の精彩の欠き方でしかない。少なくとも僕の場合はそうだ。
(大体、’87年のライヴにさえ、充二分にブッ飛ばされたワタクシですから。)
七十年代後半から八十年代前半(アフリカ・バンバーターとの共演「ユニティ」以前)は、ディスコと初期リズム・マシーンを使ったヒップ・ホップの時期にあたる。そこを気にせず、従来の「人力・大編成ファンク」の我が道を進んでいたJBは苦戦を強いられていた。上記「ユニティ」でも明らかなのだけれど、ヒップ・ホップの父はJBであったにも関わらず、だ。
勿論僕はこの時期も大好き。
「中古盤買い、しかも安いもの買い」の僕としては、先に揃ったJBはこの時期だし(笑)。
特に不遇とされる(「悪くない」とか書かれてしまう)、二枚だけブラッド・シャピーロをプロデューサーに迎えた時期にも「It’s Too Funky in Here」「Regrets」という大名曲が有る。この時期のライヴ・アルバムも良い(※)。
JBには、十年程前に出された、非常に良心的な、時期別・各二枚組の編集盤シリーズが有る。’60年代篇、’70年篇(一年だけ![本作のみ一枚もの])、’70年代前半篇そして ’70年代後半から ’80年代初期篇。
確かに最後のものは、苦肉の策っぽく一番長い時期(作品数)からの二枚組ではあるが・・・。
人見 ‘Hit Me!’ 欣幸, ’07.
(※)以降のライヴは、基本的にこの時期の構成・演奏を踏襲している。否定的に指摘されがちな事実だが、四十五歳から二十五年変わらなかったと考えれば凄い話だ(笑)。
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